『かちかち山』の「要旨」と「要約」と「感想」をまとめました

知っておきたい日本の昔話

はじめに

日本にはたくさんの昔話がありますが、忘れてしまっていたり、うろ覚えだったり、そもそも知らないものも多いですよね。そこで、「あれってどういうお話だったっけ?」とふと思い出したくなったときのために、代表的な昔話の「要旨」と「あらすじ」と「感想」をまとめておきたいと思います。今回は『かちかち山』です。

『かちかち山』の要旨をまとめました

『かちかち山』は、おばあさんを殺してしまったたぬきがうさぎに成敗されるいきさつを語ることで、悪い行いは自分への報いとなって返ってくるという因果応報を描いた昔話です。

『かちかち山』のあらすじをまとめました

昔、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんが畑で仕事をしていると、いつも作物を荒らしてしまう悪いたぬきを見つけたので、捕まえて縄でしばって家まで担いで帰りました。おじいさんは、縛ったたぬきを天上からつるすと、「これでたぬき汁を作ってくれ」とおばあさんに頼み、また仕事に出かけていきました。

縛られたたぬきはおばあさんに、手伝いがしたいからこの縄をほどいてくれと頼みます。おばあさんは最初は断りましたが、あまりに何度も言うので、たぬきをおろして縄をほどいてやりました。するとたぬきは、もちつきを手伝うふりをして、きねでおばあさんをたたき殺してしまいました。

夕方になって帰ってきたおじいさんは、おばあさんがたぬきに殺されたことを知って嘆き悲しみます。そこへやってきたのはうさぎでした。おじいさんから事情を聞いたうさぎは、代わりにたぬきをこらしめることを約束します。

次の日、うさぎは山でかや(茅)を刈っていました。そこへたぬきがやってきて何をしているのかと尋ねます。冬に備えてかやを刈っているのだと答えると、それなら自分も刈らせてほしいと、たぬきも一緒にかやを刈り、それぞれ背中に背負いました。

帰り道、うさぎは火打ち石を取り出して「かちかち」とこすって、そっとたぬきのかやに火をつけました。「今のかちかちという音は何の音だい?」と聞かれると、「ここはかちかち山だから、かちかち鳥の鳴き声さ」とうさぎはとぼけます。

しばらくすると火がまわって今度はかやがぼうぼうと燃えだしました。「このぼうぼうという音は何の音だい?」「ここはぼうぼう山だから、ぼうぼう鳥の鳴き声さ」と、うさぎはまたとぼけます。そのうちに、とうとうたぬきの背中に火が燃え移ったからたまりません。「アチチチチ!」と、たぬきは背負っていたかやを放り投げ、逃げていってしまいました。

少したったある日、うさぎはとうがらしを摘んでいました。そこへたぬきがやってきて、何をしているのかと尋ねます。うさぎはやけどの薬を作っているのだと答えると、「ちょうどいい。おれの背中に塗ってくれ」と頼みます。うさぎは薬をたぬきの背中に塗りましたが、それは薬ではなく、とうらがしの実をすりつぶしたものだったからたまりません。たぬきは「痛い、痛い」と転げまわって逃げていきました。

また少したったある日、うさぎは浜辺で舟をつくっていました。そこへたぬきがやってきて何をしているのかと尋ねます。うさぎは、今年は魚がたくさんとれるので、舟を出して取りにいくのだと答えます。たぬきは、一緒に行きたいから自分の舟もつくってくれるよう頼みます。

次の日、たぬきがやってきました。たぬきは、見た目が頑丈そうな泥で作った舟、うさぎは木の舟に乗り込んで、それぞれ海にこぎ出しました。そのうちに、水につかった泥の舟はだんだん砕けて、やがてたぬきもろとも沈んでしまいましたとさ。

「かちかち山」の感想をまとめました

『かちかち山』は、とても残酷な物語です。背中のかやに火をつけてやけどをさせるだけにとどまらず、最後は舟もろともたぬきを海底へと沈めてしまうのですから徹底しています。それを物語としてひるむことなく堂々と語り継いできたのは、たぬきが受けた報いは理不尽なものではなく、因果応報だと示すために違いありません。

そのように残酷なお話であるにもかかわらず、私たちは『かちかち山』というと、「憎しみが渦巻く恐ろしい話」ではなく、「ドジなたぬきが知恵者のうさぎにやっつけられるお話」として記憶に残っているのはなぜでしょう。

それは、「かちかち山」という軽快な題名のためだと思います。題名だけでなく、お話の中にも「かちかち山のかちかち鳥」や、「ぼうぼう山のぼうぼう鳥」などと、ダジャレのようにオノマトペが入っています。また、たぬきがうさぎの言うことを簡単に信用してしまう思慮の足りなさや、力ではかなわないうさぎが知恵を働かせてたぬきをだますところが、このお話におかしみを与えています。喜劇でなければこのような重たい話は伝えることができなかったのでしょう。

たぬきを泥の舟に乗せてこの世から消し去ったことが適切なことかどうかは私にはわかりません。実際、たぬきが何をしでかしたかは再話者によってさまざまで、縄をほどいてもらった隙に逃げ出すというお話から、小澤俊夫さんの再話によれば、たぬきはおばあさんを殺したあげく、たぬき汁ならぬ「おばあさん汁」にしておじいさんに食べさせるというお話にしています。もしも「おばあさん汁」を食べさせられたとしたら、おじいさんの憎しみはこの上ないものでしょうから、ただ逃げていったたぬきとは全く別の印象になります。

現代においては、子どもに残酷なものに触れさせないという傾向が強くなっていますが、因果と応報のバランスを考えるという意味においては、たぬきのした悪さがどのようなものだったのか、たとえ相手が子どもであっても、きちんと伝えることも大切なのかもしれないと感じたところです。

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「因果応報」を考察してみました

因果応報というのは仏教の言葉で、過去や前世の善悪の行為は、すべてその報いを受けるという考え方です。善いことをすればよい報いがありますし、悪いことがあれば悪い報いを受けなければなりません。つまりは、あらゆることが自業自得ということですね。

たぬきがひどい目に遭ったのも、自分が行った行為の報いを受けたものであって、それは当然のことだということなのでしょう。特に、司法制度が整っていなかった時代においては大いに効力を発揮したものと思われます。

法律によって犯罪者を裁くことができるようになったのは明治時代からです。時代劇などでは仇討ち(あだうち)のシーンがよく登場しますが、仇討ち自体が権利として認められていた時代もあったんですね。

「かちかち山」のうさぎの立場は、現代においては裁判官といったところでしょうか。直接的な被害者ではないものの、罪の大きさをくみ取ってたぬきを裁いています。凶悪な犯罪者であるたぬきに対して、腕力ではなく知恵で対抗するあたり、とっても優秀な裁判官のようです。

刑法や民法といっても、現在のように民主的なものになったのは戦後のことですし、以前は被害に遭っても泣き寝入りした人も多かったかもしれません。そう考えると、昔の人のご苦労はどれほどのものだったでしょうか。ただ、それなら人間がたぬきをたぬき汁にして食べることは罪に問われないのかという問題に行き着いてしまいますが、それについてはそっとしておくことにいたしましょう。

いずれにしても、因果応報というのは有無を言わせぬ圧倒的な説得力がありますし、悪者が成敗されるのを人々は好みます。このような考え方は、科学がまだ未発達な時代においては受け入れやすかったと思われます。ただ、たぬきの場合は致し方なかったとしても、なんでもかんでも因果応報のせいにして、たまたま降りかかってきた困難までもすべてその人の業とすることは、差別や偏見を生み、相当に生きづらいことであったに違いありません。

ちなみに、この昔ばなしがもとになって、比喩的に、すぐに行き詰まって壊れてしまう組織のことを「泥舟」というのはご承知のとおりです。