『花さかじいさん』の要旨とあらすじと感想をまとめました

知っておきたい日本の昔話

はじめに

日本にはたくさんの昔話がありますが、忘れてしまっていたり、うろ覚えだったり、そもそも知らないものも多いですよね。そこで、「あれってどういうお話だったっけ?」とふと思い出したくなったときのために、代表的な昔話の「要旨」と「あらすじ」と「感想」をまとめておきたいと思います。今回は『花さかじいさん』です。

『花さかじいさん』の要旨をまとめました

『花さかじいさん』は、正直者のおじいさんには幸運が訪れ、同じことをした意地悪じいさんはことごとく不運に見舞われる対比を描くことで、人のまねばかりしていては幸せになれないことを説いた昔話です。

『花さかじいさん』の要約文(あらすじ)をまとめました

昔、あるところに正直者のおじいさんとおばあさんが住んでいました。二人には子どもがいなかったので、「しろ」と名付けた犬をとてもかわいがって育てていました。

ある日、おじいさんが畑で仕事をしていると、しろがおじいさんの袖をかんで引っ張ります。何事かと思ってついていくと、しろが途中でしきりにほえるので、不思議に思ってそこを掘ってみると、土の中から大判小判がざっくざっくと出てきたのでした。

喜んでおばあさんに報告すると、それを見ていたのが隣のおばあさんでした。うちに帰っておじいさんに知らせると、すぐに隣のおじいさんがやってきて、「犬を貸してほしい」といって、しろを連れていきました。

隣のおじいさんは、しろを山に連れていこうとしますが、しろは動きません。無理やりひっぱっていくと、途中でしろは座り込んでしまいました。「ここだな」といって地面を掘ってみると、中から出てきたのは汚いごみや石ころばかりでしたので、おじいさんは怒って、持っていたくわでしろを殴りつけると、家に帰ってしまいました。

正直者のおじいさんがしろを返してもらおうと隣の家を訪ねると、犬なら途中で動かなくなったので山に置いてきたというのです。びっくりして山に行ってみると、冷たくなったしろが横たわっていました。おじいさんはなきがらを抱きかかえて帰ると、家の前に埋めて木の枝を立てて手を合わせ、丁重に葬ってやりました。

次の日になると、なんとその枝は大木に育っていました。おじいさんとおばあさんは、その木でうすを作って餅をつきました。しろの墓に供えようとしたのです。すると今度はうすの中から大判小判がざっくざっくと出てきたのでした。

それを見ていた隣のおばあさんは、うちに帰っておじいさんに知らせました。隣のおじいさんはうすを貸してもらい、すぐに餅をつき始めましたが、うすの中から出てきたのは、またしても汚いごみや石ころばかりでしたので、怒ってうすを割ると、かまどにくべて燃やしてしまいました。

正直者のおじいさんがうすを返してもらおうと隣の家を訪ねると、隣のおじいさんは、うすは壊れたから燃やしてしまった、灰ならかまどに残っていると答えます。正直者のおじいさんは、その灰を大事に持ち帰りました。

家に帰る途中、風がヒューッと吹いてきて灰が空に舞いました。するとどうしたことでしょう。葉っぱの落ちた枯れ木に美しい花が咲いたのです。おじいさんは、これはしろが咲かせてくれたのだと思い、次々に灰をまいてみたところ、あたり一面、枯れ木が花でいっぱいになりました。

そこを通りかかったのは殿様の行列でした。「これは見事じゃ」と感心したお殿様は、おじいさんにたくさんの褒美を取らせました。それを見ていた隣のおじいさんは、慌ててかまどに残っていた灰をかき集め、殿様の行列の前に現れます。そして、殿様の前で灰をまいたところ、花が咲くどころか灰が殿様の目に入ってしまい、ひどく罰せられてしまいましたとさ。

スポンサーリンク

『花さかじいさん』の感想をまとめてみました

『花さかじいさん』には正直者のおじいさんと意地悪なおじいさんが登場しますが、正直者のおじいさんは何をしたのかというと、飼っていた犬を大切に育て、死んでしまったあとも丁重に葬ってあげたんですね。それができるかどうかでかなり差がついてしまったようです。

犬は人になつく習性があるので、昔から番犬として飼われたり、狩猟のお供に連れていったりしていたのだと思いますが、家族同様に扱われるようになったのは最近のことで、以前は不要になればすぐに捨てられてしまうことも多かったのではないかと思います。ただ、現代においても、生き物を責任を持って育てることの大切さは通じるところがありますよね。

もう一つは「人のまねばかりしてもうまくいかない」という教訓が描かれています。「隣の芝生は青い」といいますが、何においても他人のものはよく見えてしまうものです。でも、そこに至るまでの労苦を飛ばして表面的なことだけまねしても、うまくいかないのは当たり前のことです。

ややもすると、ソファーに寝そべってお菓子を食べながら、有名な野球選手をうらやましく思ったり、かわいいアイドルの人気ぶりに嫉妬してしまいがちですが、自分で死に物狂いで何かを頑張ってみて、それでだめだったときに初めて他人をうらやましがる権利を得るんでしょうね。

物語ですから、正直者のおじいさんには夢のような幸運を、意地悪なおじいさんにはことごとく不運を与えていますが、実際には正直者のおじいさんと意地悪なおじいさんは一人の人間の中に同居しているものです。幸運に恵まれたら感謝して受け取り、その後もおごらず努力を続けていれば、不必要な災難は避けられるのかもしれません。

スポンサーリンク

「迷惑な隣人」を考察してみました

ここまで『花さかじいさん』の感想をまとめてみましたが、私は、この物語は深刻な隣人問題を描いた物語ではないかと思っています。

畑に出て仕事をしているということは、このおじいさんは農家の人です。農業というのは個人の力では完結せずに、どうしても周辺の人たちと力を合わせていかなければなりません。農道の管理を一緒におこなったり、草刈りをみんなで手分けしたり、水の管理が必要な水田となれば、なおさら共同作業が多かったと思われます。

そんなときに、全員が同じ気持ちで協力してくれればいいのですが、なかなかそうもいきません。いつも道具を借りにくる人、借りた道具を壊してもそしらぬふりをする人、村の大事な行事に協力しない人、困った隣人はどこにでもいたのではないでしょうか。

アパートやマンション住まいであれば、耐えがたい隣人に遭遇したなら住まいを移すことも可能ですが、所有地に家を建て、しかも土地に作物を植えて収入を得る職業であれば、そう簡単に引っ越すわけにもいきません。

村八分などの閉鎖的な風習を、陰湿なものとして震えながら見聞きすることがありますが、一方で、なかなか決まりを守ってくれない隣人に手を焼く心理的な負荷もかなり深刻だったものと想像します。毎日を生きていくだけでも大変なのに、そうした余計なストレスにさらされなければならないのは、どちらの立場に立っても不幸なことだと思います。

この物語の作話者も、かなり鬱憤(うっぷん)がたまっていたのかもしれません。寄ってたかって誰かを仲間はずれにするのではなく、「貸したものを返さないと大変な目に遭いますよ」と物語で牽制するくらいは許されるのではないかと思います。いずれにしても、よい隣人に恵まれるということは、それだけで幸せの大半を得ているようなものなのかもしれませんね。