アニメという手法が光る『ルックバック』
藤野タツキさんの『ルックバック』はご覧になられたでしょうか。映画公開と同時にかなり話題になりましたし、2024年秋からAmazonプライムビデオで配信されています。Netflixしか見ていない方は見逃しがちだと思いますので、たまにはアマプラにもアクセスしてみてくださいね。何度も何度も見返したくなる作品です。
藤野タツキさんというと、真っ先に思い浮かぶのは『チェーンソーマン』ですが、『ルックバック』はまるでテイストが異なります。本当に驚くほど違いますが、心から「出会えてよかった」と思える作品です。
この作品の特徴として、登場人物が最小限に抑えられていることと、セリフが精選されていてとても少ないことが挙げられます。モノローグ的な説明は一切なく、どう感じるか、どう受け止めるかは見た人に委ねられているんですね。画面と音楽だけで気持ちの変化や季節の移ろいを表現している部分が多く、アニメという手法が最大限に活かされた作品です。これはすごいのひと言です。
『ルックバック』のあらすじを簡単に
ざっくりどういうお話かというと、東北の田舎町に絵が得意な「藤野」と「京本」という小学4年生の女の子がいて、お互いに刺激を受けながら成長していきます。しかし、藤野が売れっ子漫画家、京本は美大生になり、それぞれの道を進んでいたときに凶悪な事件が起こり、京本は命を失ってしまうというストーリーです。
それまで藤野は、引きこもりだった京本を外に出したのは自分であり、自分が京本を救ったのだと考えていましたが、事件が起きてから、あのまま引きこもっていれば京本は死なずに済んだのだと自責の念にかられます。
藤野は、できるなら過去を変えたいと強く望み、自分が凶悪犯をやっつけて、それが縁で京本と知り合い、彼女をアシスタントに迎えるストーリーを頭の中で描きますが、所詮、それはむなしい空想にすぎません。どうすればよかったのか、どうなればよかったのか、どうなってほしかったのか、藤野は失意の中で再び机に向かうのでした。
『ルックバック』というタイトルに込められた意味
「ルックバック」とは「振り返る」という意味です。時間的に「過去を振り返る」という意味でも、物理的に「後方を見る」という意味でも、どちらでも使われますが、この作品の場合は前者です。
何か悪い出来事が起こったとき、「ああすればよかった」「こうすれば防げたかもしれない」と自分を責めてしまった経験は誰にでもあるのではないでしょうか。現在進行形で今を生きるしかない私たちは、今現在がどんな未来につながっているかなど知るよしもありません。
「自分のせい」という呵責は本当につらいものです。「自分のせいでチームが負けた」とか、「自分のミスで損害が発生した」「自分のせいで実験が失敗した」というとき、その苦しさは、自分だけが引き受ける場合の何十倍にも膨らんでしまいます。
もちろん藤野には何の責任もありませんが、本人にはそう感じられてしまうのだと思います。なんとか自分を保つために頭の中で描いた架空のストーリーは、藤野の嗚咽(おえつ)のようでもありました。
クリエーターになる道のりと圧倒的な練習量
もうひとつのテーマはクリーエーターになる道のりです。藤野は京本の協力を得て中学生で漫画家デビューすることができましたが、その練習量たるやすさまじいものがありました。私は絵が壊滅的に下手なので、絵が上手な人は、もともとそういう才能がある特別な人だと思っていたことを大いに反省させられました。
特に、引きこもり時代に京本が描いた膨大なスケッチブックの量は圧倒的な説得力があります。それを見た藤野も、それから死にものぐるいで練習を開始しますが、藤野でなくても、あのスケッチブックの山を見た多くの人は、「とにかく描け!」と自分を奮い立たせられるのではないかと思います。
京本と藤野の地道な努力は、絵だけでなく、スポーツでも音楽でも何でも、持って生まれたものだけでは戦えないこと、そして、「努力」が自分を支えてくれるかもしれないという希望を私たちにもたらしてくれます。
繊細な心理的描写の巧みさが光る
この作品は心理描写がとても秀逸です。何を考えているのかをストレートに語らせていないところがとてもいいんですね。
藤野は、画力においては京本にかなわないと思い、漫画を描くのをやめてしまった時期がありましたが、再開できたのも京本のおかげです。かなわないと思っていた京本に「先生」と呼ばれ、サインを求められた日の帰り道、だんだん足取りが軽くなって高くスキップして、それまでの劣等感から優越感へ変貌を遂げる描写は本当に見事だと思います。
でも、自分がしてあげたことには敏感でも、してもらったことには鈍感なのが人間です。当然のように、ずっと自分の漫画を手伝ってくれるものとばかり思っていたのに、京本から美大に行きたいと告げられた藤野の動揺はただごとではありませんでした。それでも「お願いだから手伝って」と言えずに悪態をつく藤野の性格の描写も、多くの人が深くうなずくシーンではないかと思います。
サバイバーズギルトと京アニ事件
途中まで2人の成長譚(たん)なのかなと思って見ていると、後半で衝撃的な展開に打ちのめされることになります。
ある日、京本が通っている美大に男が凶器を持って侵入し、12人の命が奪われてしまう事件が発生します。男はネットにあげた自分の作品をパクられたと思い込み、学生らを襲ったのです。この部分は京アニ事件を彷彿(ほうふつ)させるもので、藤本タツキさんご自身の動揺と悲しみが伝わってきます。きっと、描かずにはいられなかったのだと思います。そもそも、主人公の「藤野」と「京本」という名前は、藤本タツキさんの「藤」、そして京都アニメーションの「京」と藤本さんの「本」ですから、それは察して余りあるところです。
この描写をどう解釈するかは人それぞれだと思いますが、私は、京アニ事件そのものというよりも、あらゆる努力や夢を打ち砕く容赦ない出来事の象徴として捉えました。事故や事件だけでなく、病気や災害など、あらがいようもない惨事が突然襲ってくることがありますが、大切な人を失ったらなら、何もできなかった自分の存在自体が意味のないものとしてかすんでしまいます。
悲惨な出来事が起こったとき、生き残った者が抱く罪悪感を「サバイバーズギルト」と呼びますが、私はこの作品を見て、京アニ事件後に藤本タツキさんご自身が、「どうして自分ではなく彼らだったのか」という「サイバーズギルト」のような心理状態に陥った時期がおありだったのではないかと感じました。
きっと誰もがさまざまな思いを抱いたことと思います。何をどう感じて、どう受け止めて、どう昇華するかは、最後に藤野が机の前に貼った白い4コマ漫画の紙にそれぞれが描いてほしいということなのだと思います。