『大工と鬼六』の要旨とあらすじと感想/鬼だって「いいね!」をもらいたい

知っておきたい日本の昔話

『大工と鬼六』の要旨を書いてみた

『大工と鬼六』は、目玉を差し出せば橋を架けてやると約束した鬼が、自分の名前を言い当てられたたことで、橋を架けても何も取らずに退却した昔話です。

『大工と鬼六』のあらすじを書いてみた

昔、あるところに、とても流れが速い大きな川がありました。村人たちはこれまで何度も橋を架けようとしましたがうまくいきません。そこで、村の中でいちばん腕のいい大工に橋を架けてくれるようにと頼みました。腕を見込まれた大工は引き受けたものの心配でたまりません。川岸に行って流れを見ていても、この川に橋を架けられるとは思えなかったからです。

思案していると、突然、川の中から鬼が現れてこう言いました。「この川に橋を架けるなんて人間には無理だね。おまえの目玉をくれるなら、俺が橋を架けてやってもいいぜ」。大工はびっくりしましたが、鬼に橋が架けられるはずがありません。「本当にできるんですか?」と大工が口にすると、鬼は川の中に消えていきました。

次の日、大工が川岸に行ってみると、なんと橋が半分まで架かっています。たった一日のことに腰を抜かしていると、また鬼が現れて言いました。「おまえの目玉をくれるなら、あと半分の橋を架けてやってもいいぜ」、鬼はそう言うと、大工の返事も待たずに川の中に消えていきました。

そしてまた明くる日、その日は大雨が降っていました。まさかこんな日に鬼がいるとも思えませんでしたが、念のため川岸に行ってみると、なんと立派な橋が完成しているではありませんか。そこへ鬼が姿を現わして、「見事な橋だろう。さて、おまえの目玉をもらおうか」といいます。

慌てた大工は鬼に必死で頼みました。「どうかそれだけは勘弁してください。目玉がなくなったらこの橋が本当に雨でも流されないのか見届けることさえできません」。すると鬼は「それならあしたまで待ってやる。あした、俺の名前を言い当てることができたなら勘弁してやろうじゃないか」というと、また川の中に沈んでいきました。

大工は鬼の名前の手がかりを探して村じゅうを歩きましたが、結局、鬼の名前はわかりませんでした。もう外は真っ暗です。困り果てながら家に帰ると、隣の部屋から子どもを寝かしつける女房の子守歌が聞こえてきました。「♪寝ろや寝ろや 早く寝たなら鬼六が 目ん玉持ってやってくる」

「そうか、鬼六だ!」、大工はすぐさま川岸に向かいました。しばらく待っていると鬼が川の中から現れてこう言いました。「俺の名前がわかったのか?」「わかった。おまえの名前は鬼太郎だ」、大工はわざとじらします。「違う。やっぱり目玉をもらうか」「おまえの名前は鬼七だ」「違うね。やっぱり目玉をもらおうか」。

そしてついに「おまえの名前は鬼六だ!」と大工が叫ぶと、鬼はぱっと姿を消して、もう二度と現れることはありませんでしたとさ。

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『大工と鬼六』の感想をまとめてみた

子どもの頃、この昔話を読んだときは、「目玉を取られずによかった」と思ったように記憶していますが、大人になって改めて読んでみたところ、鬼六はそもそも目玉を取ろうとは考えていなかったのではないか、ただ、自分の名前を認識してほしかっただけなのではないかと気づきました。

だったら、どうして「目玉をよこせ」などと口走ったのでしょうか。それはきっと、そういうやり方でしか親切にすることができなかったからだと思います。そのあたり、異質な者として生きている立場の苦しさがにじみ出ているようにも感じます。

はるか昔には、深刻な干ばつの年には、雨乞いのために神前に人身御供(ひとみごくう)として若い女性を差し出したり、大規模な工事の際には人柱(ひとばしら)として生きたままの人間を地中に埋めたりしたそうですが、人間の力が及ばないことにはそのくらいの対価が相当だと考えられていたのでしょう。

鬼六はどうしたかというと、目玉か、もしくは名前を当てろといいます。かなり譲歩したようにも思えますが、逆に考えれば、自分の名前を知ってほしいという承認欲求は目の玉の価値ほどのものだということですよね。

私には、名前を言い当てられた鬼六が、目を取り損ねて残念がったのではなく、「やった! 俺の名前を知っていてくれた!」と喜んで去っていったように思えます。決して有名になりたいわけではない、表彰されたり報奨金をもらいたいわけではない、ただ、「私がこれをやりました」と知ってほしいというささやかな願いは、それほどまでに大切なものなんですね。

「承認欲求」を考察してみた

日本人は「おかげさまで」という言い方をよくします。「おかげさまで」は、もともとは「あなたのおかげで……できました」という感謝のことばですが、必ずしも手を貸してもらっていなくても、謙遜の気持ちを込めて「おかげさまで元気にやっています」などと用います。それは、「おかげさま」という言い方が、相手を喜ばせるのに最もふさわしいと知っているからです。

実際、「あなたのおかげ」といわれたとたん、そのことに費やした労苦や苦心がいっぺんに吹き飛んでしまうのも事実で、「私の存在が役に立った」という気持ちほど自分自身を満足させる感情はありません。

私たちは、よほどの有名人は別として、名も知れぬちっぽけな存在です。それでも、ここに私がいることを知ってほしい、「すごいね」とほめてほしい、「いいね」と共感してほしいという欲求はみんな持っています。ですからSNSがこれほどまでに台頭するに至ったのではないかと思います。

鬼六がもしもSNSをやっていたら、「目ん玉をよこせ」などと脅さなくてもよかったような気がします。「こんなすごい橋を造ってみました!」と写真入りで投稿すれば、たちまち山のような「いいね!」が付いたことでしょう。

そう考えると、バズりたがりの人たちに対しても、まだ、十分に自分を認めてもらっていない段階なのかなというまなざしを向けることができるように思います。鬼六は今ごろ、承認欲求の段階を過ぎて自己実現のステージに立ち、「社会貢献の鬼六」として活躍しているかもしれません。