はじめに
「度し難い(どしがたい)」はどういう意味だと思いますか? アニメなどでもよく出てきますので、使われている場面から、自分なりに意味を捉えていることと思います。
「度し難い」は「理解できない」という意味だと思っている人も、「推測できない」という意味だと思っている人も、「許すことができない」という意味だと思っている人もいるかもしれませんが、実は「度し難い」は「救いようがない」という意味なんです。
「度し難い」=「救いようがない」
でも、「度し難い」がどうして「救いようがない」という意味になるのでしょうか。「度し」は「度す」または「度する」なのかなと思いますが、そんな動詞は聞いたことがありませんよね。
今回は、「度し難い」はどのようにしてできた言葉なのか、本来の意味を探ってみようと思います。
「度」とは仏教用語です
「度」というと、すぐに思い浮かぶのが、単位としての「度」ですよね。「気温が30度になった」とか「直角は90度です」というように用います。また、「一度だけ行ったことがあります」というように回数を示すこともあります。
「度量」というのは「心の大きさ」のことですし、ほかにも「程度」を表して、「度を超えている」とか「度が過ぎる」などとも用います。
でも、実は仏教用語としての「度」もあるんですね。仏教における「度(ど)」は、もともと「渡る」と同じ意味で使われていました。迷いや苦しみの多い現世(此岸・しがん)と、悟りの世界のあの世(彼岸・ひがん)を隔てるものを「大きな川」にたとえて、舟に乗せて向こう岸へ渡してあげることを「度(ど)する」と言ったようです。
「度する」=「迷いの世界」から「悟りの世界」に至らせること
「度し難い」の現在の意味は?
そうすると、「度し難い」は「川を渡してあげるのが難しい」ということですよね。
つまり、せっかく仏様が、苦しみに満ちたこの世から悟りの世界に導こうとしてくださっているのに、ちっとも仏教に関心を持たず、仏の慈悲の心にあずかろうとしない人はどうしようもありません。これが「度し難い」の本来の意味です。それで「救いようがない」という意味で用いられるようになりました。
現在では、仏教だけでなく、もっと広い意味で用いられ、「どうしようもない」とか「お手上げだ」というように、あきれ果てたニュアンスで使われます。匙(さじ)を投げてしまいたくなるようなことですね。
(「度し難い」の用例)
・何度言っても自分の非を認めない彼の態度は、まったくもって度し難い。
・客観性を無視して感情論に終始する論法は度し難いと言わざるを得ない。
このように、「度し難い」の「度し」は「度(ど)する」という動詞で、かつて「度する」は「救う」という意味で用いられていたんですね。
「度する」=「救う」
まとめ
いかがでしたでしょうか。「度し難い」の意味は、自分で思っていたとおりの意味でしたか? それとも意外だったでしょうか。
おおもとの意味を知っていると自信を持って使うことができると思いますので、機会があったら「度し難い」という言い回しも使ってみてくださいね。
最後まで読んでくださってありがとうございました!


