はじめに
イソップ物語の中に『田舎のねずみと都会のねずみ』というお話があるのはご存じでしょうか。ところが、日本の昔話にも『山のねずみと里のねずみ』というお話があって、これがイソップ物語にそっくりなんですね。
どこがどのように違うのか、あるいは同じなのか、今回は『田舎のねずみと都会のねずみ』(イソップ物語)と『山のねずみと里のねずみ』(日本昔話)のあらすじを比較してみたいと思います。
『田舎のねずみと都会のねずみ』(イソップ物語)のあらすじ
ある日、田舎のねずみのもとへ都会のねずみが訪ねてきました。田舎のねずみは喜んで、野エンドウや大麦で精いっぱいもてなしました。ところが、都会のねずみは顔をしかめて言いました。「こんなのまずくて食べられない。僕と一緒に都会においでよ。おいしい食事をごちそうするよ」。田舎のねずみは都会に行くことにしました。
長旅を経てようやく都会のねずみの家に着きました。中に入っていくと、床にはケーキやチーズやパンの食べ残しがたくさん落ちています。「さあ、たくさん食べていいよ」、都会のねずみに促され、田舎のねずみは夢中で食べ始めると、たちまちおなかがいっぱいになりました。
その時、大きな犬が部屋に入ってきたので、2匹のねずみは慌てて戸棚の陰に隠れました。少しして、ようやく犬がいなくなったと思ったら、今度は猫が目を光らせて入ってきました。2匹はまた慌てて身を潜めました。
田舎のねずみは言いました。「こんなにおそろしい食事はいやだ。豪華な食べ物は君ひとりで食べてくれ。僕は野エンドウと大麦を静かに楽しむとするよ」。そして、田舎のねずみは急いで静かな田舎へ帰っていったのでした。
『山のねずみと里のねずみ』(日本昔話)のあらすじ
昔、あるところに、山にすんでいるねずみと里にすんでいるねずみがいました。久しぶりに顔を合わせた二匹は、おたがいの家に招くことにしました。
まず、里のねずみがやってきました。山のねずみの家は土の穴の中にありました。「よく来てくれた!」と歓迎すると、山のねずみはありったけのごちそうでもてなしました。
ところが、そのごちそうというのは木の実や草の根っこばかりでしたので、とてもまずくて食べられないと、里のねずみはさっさと帰ってしまいました。
次の日、今度は山のねずみの番です。山のねずみは子ねずみをたくさん連れて里のねずみの家を訪ねました。
里のねずみの家は倉の中にありました。そこには米も麦も野菜もたっぷりあって、いくら食べてもなくなりません。山のねずみは喜んで、次の日も、また次の日も、おいしいごちそうを食べて過ごしました。
ところが、倉には人間が飼っている猫がいて、山のねずみの子どもたちが次々に食べられてしまいました。それで山のねずみは、「ここにはうまいごちそうはあるけれど、猫のいない山のほうがいい」といって、山へ帰っていきましたとさ。
なぜイソップ物語に類似した日本昔話があるのか
この2つのお話は、偶然、似た話が別々に生まれたのではなく、イソップ物語が日本に伝わって、それが日本の風土に合った形で再構成されたと考えるほうが自然です。なぜなら、イソップ物語は、キリスト教の布教活動や貿易などを通じて世界各地に広まった歴史があるためです。
イソップ物語が初めて日本に伝わったのは安土桃山時代です。この時期、ポルトガルから来日したイエズス会の宣教師たちが、キリスト教の教えを伝えるための教材として「イソップ寓話集」を日本に持ち込みました。
1593年(文禄2年)に天草で出版された『伊曽保物語(いそほものがたり)』は、当時の口語体で書かれたイソップ物語の日本語訳として知られていますが、この物語集が布教活動の中で広まり、一部の知識人や庶民に親しまれるようになりました。
その後、江戸時代にはキリスト教が禁じられたため、『山のねずみと里のねずみ』のように、日本の昔話として語り継がれたものがあったと考えられます。明治時代になるとイソップ物語は小学校の教科書にも採用されましたので、それ以降は広く親しまれるようになったというわけです。
『山のねずみと里のねずみ』の感想をまとめてみた
さて、ここからは、日本の昔話の『山のねずみと里のねずみ』に焦点を当てて感想をまとめてみたいと思います。
『山のねずみと里のねずみ』は、田舎暮らしに軍配を上げていて、物質的な豊さではなく精神的な豊かさに焦点を当てた内容になっています。元話の「イソップ物語」は「寓話」と呼ばれる教訓的なお話に分類されますから、質素な暮らしに価値を置くのは、ある意味では当然かもしれません。
このように「田舎はいいよ」とアピールする風潮は現代にも通じていますが、アピールしなければならない理由があるのでしょう。もしも、本当に都会よりも田舎がいいのなら、東京一極集中は起こっていなかったはずですからね。
「東京で生まれるのもひとつの才能」のような言い方をされることがあります。これは、都会で生まれることが、田舎で生まれることよりも、何かにつけアドバンテージがあるという文脈で用いられますが、それは現実にそうだと思います。ただ、都会暮らしはいいことばかりではなく、適応して生活する労苦がつきまとうのも事実です。
唯一言えることは、誰しも生まれる場所を自分では選べないということです。ですから、都会の人が田舎の人を下に見るようなことはあってはならないと思いますし、逆に、田舎の人が都会の人を極端に毛嫌いするのも問題です。自分では選べなかったことについて、まるでその人の落ち度のように言うのは、これからの時代はなくなっていくでしょうし、また、なくなってほしいと思います。
大人になれば、自分で好きに生活する場所を選択すればいいわけですが、少なくても子どものうちは生まれ落ちた土地で生きていくしかありません。このことを再確認させられる昔話が、この『山のねずみと里のねずみ』ではないでしょうか。
「猫」を考察してみた
山のねずみが都会を選ばなかったのは、都会には怖い「猫」がいて、かわいい子ねずみたちが食べられてしまったからです。
この場合の「猫」はおそろしいものを象徴しています。どうして「猫」だったのかというと、人間の存在を示唆するものとして、飼い猫としての「猫」を登場させたのでしょう。おそろしいものにはいつも「人間」がつきまとうようです。
人間関係がうまくいって、安定した収入が得られて、やりたいことが自由にできるのであれば、そこが都会か田舎かというのはあまり問題になりません。都会で成功すれば都会が好きになるでしょうし、田舎で名を挙げれば田舎のすばらしさを説くでしょう。
問題は「猫」とどのように対峙するかです。人生には必ずといっていいほど、その人にとっての「猫」が登場します。真正面から闘ってもいいでしょうし、一生出くわさないように避けて通るのも一案です。それは、自分の性格や価値観に依存します。
私たちは、ややもすると自分以外の人はラクラクと人生を生きているように感じてしまうものですが、実際にはみんな同じくらい大変です。その事実を確かめるために、この物語のねずみたちのように、人生において一度くらいは、都会の人は田舎で、田舎の人は都会で暮らしてみるのもいいかもしれません。
追記:『チェーンソーマン レゼ篇』の中でも『田舎のねずみと都会のねずみ』が取り上げられていましたね。デンジは「都会のねずみ」がいいといい、レゼと天使の悪魔は「田舎のねずみ」を選びました。これは価値観の違いですからどちらがいいかは人それぞれです。自分自身ができるだけ負担なく生活できたらいいですね。



