「泥仕合」は「見苦しい争い」のことで、「泥試合」ではないんです

気になることば

「泥仕合」は「泥試合」ではないんです

私は、かなり長いあいだ「泥仕合」は「泥試合」と書くのだとばかり思っていました。でも、「どろじあい」の変換候補に「泥試合」が出てこないので変だなと思って調べたら、「泥仕合」が正解だったんですね。それを知った時には軽く衝撃を受けました。

教養を疑われてしまいそうですが、もしかしたら私と同じように思い違いをしている方もいらっしゃるかもしれないと思い、今回は「どろじあい」はどうして「泥仕合」と書くのかについて取り上げてみたいと思います。

スポンサーリンク

「泥仕合」はどういう意味?

まず、「泥仕合」とはどういう意味なのか確認しておきましょう。

泥仕合
お互いに、相手の秘密や弱点、失敗などをあばきあって、醜く争うこと。

泥仕合:見苦しい争い

このような意味になります。つまり、顔に泥を塗るような品のないやり方で非難しあう見苦しい争いが「泥仕合」なんですね。確かにこれは「試合」ではありません。

「泥仕合」を用いた例文で意味を確かめよう

このように「泥仕合」は、本来あるべき姿からかけ離れた見苦しい争いのことで、政治の場面や跡目争いなどでよく用いられます。

具体的にどのように用いればいいのか、例文で確かめてみましょう。

「泥仕合」の例文
・数時間にわたる議論は、論点が曖昧なままの泥仕合で終わった。
・長年続いた老舗企業の跡目争いは、完全に泥仕合の様相を呈した。
・遺産をめぐる親族の話し合いは、感情的な泥仕合と化した。
・政治家たちの非難の応酬は、政策論争というより泥仕合の様相を呈している。

「仕合」と「試合」はどう違うの?

では、「仕合」と「試合」はどう違うのでしょうか。

「仕合」は、もともとは「為あう(しあう)」でした。それが名詞化して「しあい」になって、「仕合」という漢字が当てられたんですね。「仕=する」「合=互いに」ということですから「やりあう」という意味になります。

一方、私たちが日常的に用いている「試合」というのは、武芸や競技で技の優劣を競うことですよね。これももともとは「為あう(しあう)」だったのですが、名詞化して「しあい」になって、その中でも特に競技のことを「試合」と書くようになりました。「腕を試しあう」ようなニュアンスでしょうか。

しあう → 競技 = 試合
しあう → 競技以外 = 仕合

つまり、「仕合」も「試合」も「為あう」が語源ですが、特に競技の場合には「試合」を用い、競技ではない場合には「仕合」にするということです。でも、実際には「仕合」と単独で用いられる機会はあまりなくて、今では「泥仕合」の形で残っているということになります。

スポンサーリンク

「幸せ」も、もともとは「仕合わせ」だった

実は、似たような経緯をたどるのが「幸せ」という表記です。「幸せ」とは「幸運であること」の意味で用いられていますが、もともとは「為(し)合わす」ことでした。つまり、「うまくいくように合わせること」や「つじつまが合うようにすること」を「しあわす」といっていたんですね。

それがだんだん名詞化して「仕合わせ(しあわせ)」になり、特によい結果をもたらした場合に「幸せ」という漢字を当てて、現在はこれが広く浸透しています。ですから、「幸せ」を「仕合わせ」と書いてもあながち間違いではありません。

まとめ

今回は、「泥仕合」はどうして「泥試合」と書かないのかについてまとめてみましたが、「やりあうこと」だから「仕合」だったんですね。でも、もしかすると、雨天でぬかるみの中で試合をしたら、それは文字どおり「泥試合」になるのかもしれません。

タイトルとURLをコピーしました